ゴジラ~新作映画「ゴジラ キングオブモンスターズ」が出た機会に日本が生んだ世界的スター元祖ゴジラのおさらいをしよう!

ゴジラ~日本が生んだ世界的スター

もうすぐ新作映画「ゴジラ~キングオブモンスターズ」のブルーレイ&DVDが発売されます。
これはハリウッド版ゴジラの第二弾ですね。
監督のマイケル・ドハティさんは、物心ついた頃からの怪獣映画ファンで、『ゴジラ』シリーズはすべて観ているという、ハリウッドきっての“ゴジラオタク”。そんな監督が作ったんですから期待値は高まりますね。

というわけで、ここで改めてわれらが日本版「元祖・ゴジラ」を復習してみましょう。

記念すべき第1作「ゴジラ」伝説はここから始まった

「ゴジラ 」第1作 基本データ

公開 1954年(昭和29年)動員:961万人 配収:1.6億円
脚本:村田武雄 本多猪四郎 監督:本多猪四郎 特技監督:円谷英二 音楽:伊福部昭
出演者:宝田明 河内桃子 平田昭彦 志村喬

記念すべき第1作。怪獣が登場するドラマなんて何しろ初めての試みなので、作り手の気迫が伝わってきます。

当時実際にあった水爆実験が取り上げられ、怪獣登場の設定のリアリティに利用されているのと同時に、テーマに反戦、反核の強いメッセージが盛り込まれています。 この映画が”今”作られる理由というのがちゃんとある。これはエンターテインメントとしてもとても大事なことだと思います。

特撮にも甘さがないですね。 もちろん今日のCG映像には及びませんが、それでも当時のミニチュア特撮の最高の技術が結集しているのがわかります。

「ゴジラ」を撮った円谷英二は、日本特撮の神様

特撮は、”特撮の神様”と言われた円谷英二。 彼は、子供のころは飛行機乗りになるのが夢でした。と同時に非常なアイデアマンで発明家でもありました。なんと10歳で手作り映画を作っちゃいます。

ところが飛行機乗りになろうと入った操縦士の養成学校が潰れてしまいます。 で、入った玩具屋で発明で大儲けをし、その金で職人を連れて花見に行くと、 職人たちが映画会社の技師たちと喧嘩を始め、それを仲裁したのが縁で映画会社に入ることになるというんですから、人生何があるかわかりませんね。

映画会社に入ると、みんなが怖がってやりたがらない空撮を、飛行機大好き円谷が買って出てすぐにカメラマンに昇格。 カメラマンになると、持ち前のアイデアで新しい撮影方法をどんどん発明していきます。

ところが、当時の大俳優・長谷川一夫をリアルに色黒に撮影したことと カメラマン仲間のやっかみから低予算作品担当に回されてしまいます。
しかしそこはアイデアマン。知恵と工夫と発明で低予算問題を乗り越えます。 そんな中で生まれたのがミニチュア撮影だというから驚きです。

予算がないから、セットは小さいものを作るしかないと考えたんですね。 1933年アメリカで「キングコング」が公開されると、その内容に衝撃を受け、 独自にフィルムを取り寄せて一コマ一コマ分析して研究したそうです。

その後、東宝に移り特殊技術課を任され、ますます特撮技術を極めていきます。
戦時中は大好きな飛行機をミニチュアで作ってピアノ線で吊り、操演技術を確立させながら戦争映画を作ります。

ところが戦後、国威発揚映画を作ったということで、連合国軍総司令部によって公職追放を受け、東宝を辞めさせられてしまいます。

自宅の庭にプレハブで「円谷特殊技術研究所」を作って細々とこぼれ仕事を引き受けていると、1952年公職追放が解除となり東宝に呼び戻されます。

そして1954年、初の本格的な特撮怪獣映画である『G企画(ゴジラ)』の企画が立ち上がり、円谷に特殊撮影の任が与えられます。
復帰後間もない円谷は、まず現場のスタッフ集めから始めなければなりませんでした。
ところが、ベテランたちは戦争でちりじりになってしまっていたため、結局集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の20歳そこそこの若者たちでした。
この未経験者集団を束ねて、たった数か月で歴史に残る特撮を作り上げたのは、円谷の馬力と人徳のなせる業なんでしょうね。

「ゴジラ」のテーマ曲を作った伊福部昭は、独学で作曲家になった

その円谷の公職追放の不遇時代に、人の紹介で会っていつも酒をおごってあげていたのが、音楽監督の伊福部昭。
お互い名乗りもしない、単なる飲み友達だったので、ゴジラの制作発表の場で初めてお互いの素性を知ってびっくりしたそうです。そりゃそうですよね。

それにしても伊福部はよくあんな曲が作れたなあ。 変則リズムで他では絶対聞かないオリジナリティの塊のようなメロディ。 調べてみると、なんと彼は音大に行かず、独学で音楽の勉強をして作曲家になったんだそうです。

お父さんが警察官僚で、北海道に赴任していたことから北海道・釧路の出身。 小学生の時アイヌの人たちと触れ合い、その生活、文化から大きく影響を受けたようです。

中学の頃にバイオリンと作曲を始めて、北海道大学農学部に進むと管弦楽部に入ります。そして先進的な音楽を志向する仲間たちと一緒に、海外の新しい音楽の楽譜をどんどん取り寄せ、演奏するという活動を続けます。

その後、海外の作曲コンクールで1位を取って世界的評価を得るなど大活躍。
戦後はゴジラを始め、たくさんの映画音楽を作曲し、日本の作曲界を牽引していきます。

幼いころ北海道でアイヌの文化に触れたことと、独学だったからこその自由な発想が、あの独特の世界観を作り上げたんでしょうか。

「ゴジラ」が本当に怖い第1作

この映画はゴジラがちゃんと怖い。
その上モノクロ効果もあってとても怖い。
有名な、山の稜線からゴジラがぬっと顔を出すカット。あれは本当に怖い。
スピルバーグの怖さの演出に匹敵しますね。「ジョーズ」の登場や、「宇宙戦争」のトライポッドの出現くらい怖かった。
優れた演出家は恐怖のピークに至るまでを緻密に計算して、そういうカットを積み上げていくんでしょうね。まんまと術中に嵌っています。

もう一つ。嵐の中、大戸島の新吉の家がゴジラに破壊されるシーン。
あれを見た時、あっ!と思ったんです。 子供の頃のかすかな記憶にあったのが、モノクロで、和室に浴衣を着た親子がいて家が崩れてくる映像。
ただ、何の映像なのかわからなかった。自分自身の地震の記憶かもしれないと思っていたくらい。そのくらい怖かった。 それが今回ついにわかったんです。ゴジラの1シーンだったんですねえ。
おそらくテレビで日曜の午後に放送された時に見たんでしょう。昔のテレビはよくそういう編成をしていましたからね。

「ゴジラ」第1作の着ぐるみは”100㎏”

円谷は当初、アメリが版「キングコング」のように、人形を使って一コマずつ撮影していく方法を考えていたそうですが、制作費と製作日数の関係で、着ぐるみ撮影方式になったそうです。
予算不足から世界に冠たる着ぐるみ特撮技術が生まれたなんて、ちょっとおもしろいですね。

この時のゴジラは、生ゴムで作られました。
ブロック状の生ゴムを一晩水に漬け、翌朝軟らかくなったところでワセリンなどを混ぜ込んで練り、粘土原型から起こした石膏の雌型に塗りつけて、これを赤外線ランプ作った専用の「焼き窯」の中で250度ほどで加熱乾燥させると表皮ができます。
ここに固めに練ったゴムを盛りつけ襞(ひだ)を作る、という工程でした。

こうしてできた「1号」ゴジラは非常に硬く、150kgを超える重さで、撮影中にもすぐ倒れ、しかも自力で起き上がることができなかったそうです。
結局この1号は上下に切り離され、上半身だけの撮影用と足だけの撮影用に使われました。

仕方がないので何とか軽量化を図り、「2号」を作り上げましたが、それでも100kgあったというからスーツアクターもスタッフも大変だったでしょうね。

このゴジラは身長50m、体重2万t。
皮膚の質感には「魚のうろこ状」にするか「いぼのような半球状の突起物」がいいかなど様々な試行錯誤の結果、ワニを基本モチーフに、放射能でできた火傷によるケロイドをイメージさせる、「畝のあるごつごつ状」が採用されました。あれが火傷だったとは驚きです。キャラクター造型にもちゃんとテーマが反映されていたんですね。

こうしたクリエイターたちの情熱と工夫の結果、あのゴジラが出来上がっていたんですね。ゴジラが怖いわけです。

「ゴジラ」第1作のキャストについて

キャストも素晴らしい。彼らからも、思いがけない巨大生物との邂逅に対する驚きと恐怖が伝わってきます。

考えてみれば、当時は東京大空襲から10年も経っていないんですよね。
せっかく焼け野原から復興したのに、今度は怪獣に破壊されてしまう。戦争の記憶がまだ生々しい状態だったから、リアルな演技になったのかもしれませんね。
劇中にも「あーあ、また疎開かよ」っていうセリフがありました。当時のお客さんにとっても生々しく感じたことでしょうね。

それにしても、宝田明と平田昭彦がイケメンで背が高くてスマートでとてもカッコいい。
そして河内桃子が可憐。彼女、実際に貴族の末裔なんですね。品があります。
志村喬がシブい。生物学者として、ゴジラという未知の生命体への畏敬の気持ちを表現しています。殺してしまうなんて惜しいと苦悩する姿も…。名優と言われる所以です。

改めて見て名作だと思いました。観客動員1000万人近くというのは頷けます。

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